前野の期待値は大して高くなかった。
隣人の音楽で振動する壁にもたれながら、片手で親指を動かして携帯を開けた。
『明日は久しぶりの休みだからたっぷり睡眠とっといて。明後日はお偉いさんがいらっしゃるから遅刻しないようにね』
いきなりメール本文が目に飛びこんできた。
あの女は、画面にメールを表示したまま携帯を閉じたのだと推測できる。
上司からの仕事に関するメールのようにみえた。
日付は今日の昼で、送信者覧に“福ちゃん”と表示されている。
続いて電話帳を検索すると、福ちゃんという名前で電話番号とメールアドレスが登録されていた。
(上司をちゃん付けで登録するのはおかしい。同期の仕事仲間だろうか?)
一つ前の受信メールを見てみた。
『今日はなかなか聴き心地良かったわ。本番もこの調子でね』
このメールも福ちゃんからだった。日付は昨日。
(コンサートにでも出場するのだろうか? ピアノの先生と教え子か? いや、あの幸薄そうな女が歌い手とは思えない)
前野は受信メールを遡っていった。どれも福ちゃんからだった。
『もう少し声を張らないとダメだよ』
『下を向いていることが多いよ。もっと顔を上げてね』
『明日は笑顔を絶やさないようにしてね』
『《プライベート会話について》
次回のアチトークでは住んでる家の事を話してもOK』
前野の指が止まった。